十善行

十善業 

私も推命の師匠から、仏典とは違う形ですが、

「他人様のこころに刺さった刺(とげ)を抜いてあげる事が自分自身に刺さっている刺(とげ)を抜く事になるからそれができるように、確り学んで良い鑑定士になるんだよ」と言われ、現在にいたっています。

私は、縁のある人には、鑑定の中でもお伝えしているのですが私の実力不足で、なかなか相手には伝わりません。しょうがないので、この言葉の裏側にある膨大な背景を見せなければ、「風景のような言葉」になってしまうのでできるだけ具体的に、普通の人にもイメージ出来る形で解説していきます。

業と因果についての解説になります

先ず、

1、殺生

十不善業の中でも最も悪いとされています

前回、動機の問題に触れましたが、

怒りの故に殺す意思を持って殺す事、いわゆる殺人事件

貪りの故に殺す事、角、毛皮、食肉としての屠殺

無知故に殺す事、害虫、害獣などを良かれと思って殺す事

「無知」とは難しいものです。裁判なら責任能力が無く無罪とされるものでも

その結果はやってくるよというのが業の考え方です

でも、食に関しては難しいですね。

偉いお坊さんは命に感謝して食べることが大事ですと答えますね。

食の学習について世界的にも、すこし前にベルギー映画で

邦題で「いのちの食べ方」原題は「Our Daily Bred」で

屠殺場のベルトコンベアーを流される生きた動物の姿が

なかなかショッキングでしたが、しばらくすると

今日のご飯は何かな?と考えている自分がいました。

これも「無知」の働きです。見たくない、聞きたくないものは

すぐに抜けて行く。

食欲など身に備わっている欲(業)のために人は合理的に

馬鹿になるもので、物欲、性欲、名誉欲も同じです。

できるだけ殺さない事、食に関してはお坊さんが言うように

感謝して食べる事、たまにはベジタリアンの一日を過ごす事など

命に感謝し、食に敬意をはらい、お線香の一本でもあげて

供養することも、あまのじゃくさんには独りよがりの偽善者で

意味の無い事に聞こえますが、効果はあると仏典には書かれています。

対治法の一つとして、「放生」をして善の行為を積むとあるのですが、

これは売るために捕まえた魚や鳥を買ってきて

自然に放すことをいうのですが、特定個体の保存など

タマゾン川(多摩川に熱帯魚が繁殖している)問題など

現実性に欠けます。今すぐ実行出来る一番よい対治法は

もし殺される側に自分がいたらとイメージし、じゃ、

どうする?となるのですが、できることで良いと思います。

ちなみに私はお線香タイプです。


殺生についてはまだ色々あるのですが、特質すべきは

殺生を直接しなくても、それに同意したり、

共感するのもまた同じく不善の業を積むとあります。

たとえ敵や憎悪する相手であっても

人の死を喜ぶ事はいけない事だと説かれています

その真逆は、生命を愛おしみ、死を悼み、

命を大事にすることです。


2 偸盗(ちゅうとう)

これは3つに分類され 強盗 泥棒 詐欺とされています 

他人のものを盗む事一般です。


3、邪淫(じゃいん)

まあ、言葉から想像して下さい。

以上が身体による活動としてダメだよーと言われている事ですが、

たぶん1と2に関しては小学生の低学年でもしっていることですね。

3は、黄昏れはじめる年代になるまで理解出来ないかもしれません。

つぎに言葉による活動として

1、妄語(もうご) これは嘘をつくことです。

対治法は正直に嘘の無い言葉を述べる事になりますが、

それが、他人を傷つけたり、トラブルを増やす事になるのならば

沈黙こそが金言となります。

2、両舌 これは誰かと誰かを仲違いをさせるため、

積極的に嘘をついたり、デマを飛ばしたりして

人の和を乱す事を言います。



3、悪口 文字通り「わるぐち」のことです。相手の弱点を

あげつらうことですね。皮肉なもの言いや、相手を不愉快にする事も

含まれます。

出来るだけ長所を見つけてあげて下さい。

4、綺語(きご) どうでもよい、おしゃべりのことですが、

その底にあるものは自分の怒りや、妬みや、嫉妬などの

欲心が動機になっていると説かれます。

口は災いの元です。


次ぎに心における行為です。

1、貪欲心 これはなかなか、おもしろく

「自分が持っていない、素敵なもの(物、者)を自分のものだったら

どんなに素晴らしいだろう、手に入れるにはどうすればいいんだろう?」

と何度も何度も「もの」への欲を起こすこと全てとあります。

時を越えて、自己啓発系の願望成就法にダメ出ししているように

私には思えるのですが......。

この対治法は自分の持っているものでも能力でも他人に

与える事だそうです。

2、害心  

一つには他人に対して怒り、こころの中で

「こいつをボコボコにしてやる」「復讐してやる」「刺してやる」

等々相手を傷つける事

もう一つは、実によく、世間を見ていると感心させられるのですが

他人の幸せが憎くて仕方が無いこと、

他人の不幸を喜ぶことと説かれています。

意識的に他人の幸せを喜ぶ事をしましょうね。


3、邪見

これはほぼ仏教の見解に対する他の教えとの違いを

鮮明にしているもので、興味のある方はご自分で調べて下さい

以上が十不善業の簡単な解説と10の善業の具体的な姿です

「噂話は嫌いだからしないでいられるが、他人の幸せを

喜ぶ事は、すぐにはキツいかなー。」

たぶん皆が思っている事です。ご安心を。




次ぎに、この業がどのような形で現実の世界に現れるかを解説しています。

これらの業は異熟果 等流果 増上果、士(じゅう)果の

四つの形であらわれるとします。

まず、異熟果は、十不善のどれでも動機が怒りによる場合は

地獄に落ち、貪欲の場合は、餓鬼に生まれ、暗愚、無知の場合は畜生に

生まれるとされています。

「地獄に堕ちるわよ!」少し前にテレビでよく聞いた言葉ですが

一概に否定出来ません。

(寒熱16地獄さらに余地獄をいれて18地獄については結構解説にキツいものがあり、機会があれば解説したいと思います。ちなみに地獄は地獄スポットがある訳ではなく、我々の日常の中にあるもので、どこかにいかなければ知られないようなものではありません。)



等流果には十不善のそれぞれに

行為の等流と体験の等流があると解説され

行為の等流とは前生で積んだ業をそのまま今も心の癖として

持って生まれることを言います。たとえば、殺生を積んできた人は、

この世でも殺す事を楽しむ癖をもっている。

私事ですが、子供の頃の自分の残酷さについて、かなり

悩んだ時期があります。子供の残酷さとよく言いますが、実は

等流果の姿そのものなのかもしません。同様に欲心の等流果としての

強欲さ、害心、妄語(嘘)など、自我に目覚め

世間に対して損得勘定から自分を隠し始める以前の、

子供の姿を見ていると、個々の業の一部が行為の等流として見えてきます。

前世の自分の姿は「今どのような姿なのかが理解出来れば

前世で自分が何をしていたかが解る。今自分が何をしているかを冷静に

理解出来れば来世、自分はどこに生まれるか知る事が出来る」

お釈迦さんが言った有名な言葉です。

前世療法等で前世の自分の名前を思い出す人がいますが

自分の苦しみの本質(なぜ、苦しみが生じたのか?)

を思い出す人はあまりいません。

人は誰もが身分制度の天と地の中でもがき、

さらに地獄に入ったり出たりの六道輪廻の中で

今、人として生まれてきています。この幸運を

真剣に考えることはとても大事な事だと思います。


(とりあえず悪い事ばかり書きますが、人を喜ばす事、助ける事に無類の喜びを感じる子供がいることも忘れてはいけません。業は平等で、良い業は良い果として熟します。)


次ぎに増上果です

漢字からのイメージだと、なにかがさらに増していくような

イメージですが、実は、その人の「環境」に結実した業の結果で

その人の生まれる器としての環境のことです。

たとえば、メチャクチャ厳しい家族のもとに生まれる等、

ラジオの周波数のように積み重ねた業と同期する環境の中に生まれ、

そこで生きることを言います。

親を選んで生まれる事はできないと言いますが

「それは違うよ。あなたの積んだ業にふさわしい

親を選んで生まれてきているんだよ。」

これが仏様の説明です。誰のせいでもない、自分のせい。

「ぜったい違う。自分は悪くない。そんなこと憶えていません!」

ならば、自分の心の癖を十不善に照らし合わせて冷静に

検討してみて下さい。




大事な事をもう一度おさらいしたいと思います。

それは、業は行為の積み重ねで身体、言葉、精神おのおのの

活動に依ります。つまり。悪であろうが、善であろうが

行為には必ず結果が生じ、その果実は自分で刈り取ることになる。

だから、

一番最初に楽になる10の方法としてそれを書いたのです。

では善なる業の果はどんなの?

それも説明されています。

この十善業の等流果は殺生を断じれば長寿で病が少なく

偸盗(ちゅうとう)を断じれば財があり敵や盗難もなく

邪淫を断じれば伴侶が美しく、敵対するものが少なく

妄語(うそをつくこと)を断じれば、皆から軽んじられる事がなく

言う事に威儀が生じ、両舌を断じれば周りのものに敬われ

悪口を断じれば、悪い噂や身に覚えの無いゴシップは無くなり

綺語(おしゃべり)を断じれば言葉に威厳が生じ、

貪欲心を断じれば思いが叶い、害心を断じれば傷害が無くなり

邪見を断じれば仏様に近づく。

十善業の増上果は円満であらゆる事に満ち足りた環境となると

されています。

この国は環境的には十善業の増上果なのですが

個々人は苦しく辛い人がとても多い。

楽になる道を選ばず、苦しみが生じる種ばかりを

播いているからとしか言いようがありません。

なぜか?

それは、因果についての理解が足りないからなのではないでしょうか。

因果が解れば、いまこの瞬間から人は変われます。

10の自分を苦しめる行為を止めて、

楽になる10の行為を積極的にしていけば必ず変わります。

汚れたコップ(器)の水を飲めるようにするためには、

コップを変える事が出来ないのなら清らかな真新しい水を

注ぎ続けるしかありません。

幸せになりたいと泣き続けながら、

苦い水を飲み続けている人がいます

開き直ってもなにも始まりません。

まず、自分の心の癖を自覚する事から初めてください。

そして、焦らずに続ける事です。




自分は運が悪いと自覚があるとすれば

その人は自分を客観的に見る事が出来る人で

こころの「癖」を、おぼろげにでも自覚しています。

そして、自分に自信を持てる生き方を諦めている人が多い。

そうなると、その人に、一番大事なことは

そこから飛び出す「勇気」をもつ事になります。

毎日欠かさず眺める鏡に「勇気」と書いてみて下さい。

そして、良い業を積んで下さい。


自分より頭の良い奴はいない、自分の事を理解出来ないのは

みんながバカだからだと思っていて、孤独になっているのなら

その賢い頭を相手の長所をみつけることに使い

新人イジメがたまらなく好きな古参なら、今日からでも

親切な先輩になり、他の悪口や批判や批評をやめれば

後輩から確実に慕われます。


宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩をご存知でしょうか

宮沢賢治は熱心な仏教徒で、私などに言わせると

あの内容は10善業の具体的な姿です

誰かが悲しんでいたり、苦しんでいたら、ただ寄り添ってあげる

それだけでも、大きな力になり、その人を癒す事が出来ます。

自分には何も出来ないなんてことはありません。

あなたがそこにいる事が癒しになります。

人としての温もりや、言葉や、視線で繋がりあうことで

人は救われるものです。そんなときは言葉はいりません。

勇気を出して、良い事をしてみて下さい。

「運が悪い」これは、しょうがないことです。

今は記憶の切れ端も無いけれど、こころに刻まれている、

まぎれも無い過去の行為の証(あかし)なんですから、

自分が生まれた環境もまた「その結果」だなんてことは

誰も知りませんし、言いたがりません。

(業なんて言うのは非科学的だからでしょうね。)

まず、このこと(因果)を自覚しそれを受け入れる事。

そして、受け入れれば、次が始まります。

運が悪いのは親のせい、友達のせい、つきあった男のせい

そうじゃなくて、自分がなしてきた業のせい、そこから生じた縁のせいです。

自然の出会いはすべて業による縁から生じてしまう。

だから良い業を積めば、良い縁が生じて来るんですよ。

そしてまた、本人が自覚さえすれば縁は変える事ができる。

「これ、やばい、いつものパターンだ。」これに気付くことが

大事という事です。

それをより気付きやすくする方法が10の善業だと思って下さい。

良いエネルギーが増えれば増える程、気づきが生まれ

次ぎに、または同時に良い事が起き始めます。

諦めずに、自分の持って生まれた器の毒が澄みきるまで

あきらめず積み続けて下さい。

それが「勇気」ですね。

身体はピークを過ぎると、いつの間にか

ジジイやババアになっていきますが

心は意図すれば瞬時に、豊かに、満たされ、巨大に

充実し、さらに時により熟成されることができます。

それはそれで楽しいものです。

その方法が、10の善の業を積む事です。


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