マインドフルネス
マインドフルネス
運勢鑑定のサイトなのに何故マインドフルネスの記事が あるのかと疑問に思った方もいると思います。 その理由は「黒い家」を知ってしまったからで、その内容は 以下の記事を参考にしてください。 何とかならないかと自分が経てきた道を書いたのですが、 本当なら誰にも見せたくないもので、何だかなー。と それでも「義を見てなさざるは勇無きものなり」が心情の一つなので これを書くことにしました。いまだに青っちょろい事を言っていますね。 ライフワークという言葉を最近は聞かなくなりましたが、これが私の ライフワークです。 |
黒い家
テレビをつけたら「悲しみのない自由な空へ.......」と昔懐かしい 曲が聞こえてきました。「翼をください」です。 時が経ち、人と出会い、推命学と出会い、今、この歌を聴くと たとえ自由な世界に行けたとしても、人は自ら悲しみをつくり 怒り、求め、執着し、自らの自由の翼を捨ててしまっている この現実に畏れさえ抱きます。 幸せになりたいと口では言うのですが誰かの態度が気に食わない、 何年経っても思い通りにならない相変わらダメだ。消えてしまえ。と、 やはり自ら敵をつくり、ことあるごとに自身の心の濁りを 増やし続けている。もしこの通りなら幸せを感じることは 難しいかもしれません。ただただ心の闇の濃さが増していくだけです。 極端な場合家の中にそんな人が一人いるだけで家中に伝染し 「暗い家」が生まれてしまいます。 「黒い家」と言う小説がありましたが、 ある神道家の先生は家の屋根に黒い雲が生じると 書かれていました。その通りだと思います。 そして皮肉なことなのですが、ここまで暗さが増すと もし「希望」に見えるものがあるならば、それが、 さらなる苦しみの原因になる可能性がある。 その理由はこの「希望」に対して、すがりつくような 「期待と執着」が起きるからです。とても難しい問題です。 この「家」の問題なのですが、代々、同じような苦しみを 負う人達が生まれていることが多い。 それを語り継いでいる家もあるし先祖のことは 何もわからないという家もある。 実は私の実家もこの類の家でした。(語り継がれていました) なかなか大変な家で、私の親の代が建てた家なのですが ほぼ、私が家の業を被り、他人に尽くすことで なんとか生計を立てています。自分ごとを優先すると たちどころに、面白くないことが起きると言う実に めんどくさい人生を歩んでいます。 改善の提案 ここ数ヶ月、「真っ黒な家」の話を生徒さんに聞いて、 どう改善すればいいのかを考えてきました。 当人の心が動かない限り何も動かないと言うのが 私の考えです。気づいた人から始めるしかありません。 (これは私の体験談でもあります。) 浄化の行いを始めることになるのですが、 最近売り出し中のスピリチュアル的なものは 残念なことですが、時間による検証が短かすぎます。 それが真理であれば如何なる風雪にも耐え 自然淘汰されることはないでしょうが、 多くの場合雨後の筍のように生まれ、薄雪のように 消えていっている。伝統のある神社仏閣も 宗教ビジネスとして四苦八苦していると言うのが 現実のようです。 心を清める日常を自分自身で作ること。 こう言うと多少でもお金を払えば楽になるなら お金を払いたい。と思う人も多いと思います。 でもこの考えが「苦」の原因なのですよ。 お金で「苦」がどうこうできると思っている 紛れもない証拠なのです。 憎い敵 欲しい人 自分に逆らう人間、家族 お金があれば表面上は回るかもしれません。 それで良いならば、しのごを言わず一生懸命 お金を稼ぐことです。 お金で買える幸福を楽しめば良いのです。 ただ、心の中の「黒いもの」は消えないでしょう。 これを無くしたいのであれば、数千年の風雪に耐えた教えに 耳を傾けることです。 私が薦めたいのは「真理の言葉」「ダンマパダ」 「法句経」です。全て同じ本を指しますが翻訳が たくさんあるので、ご縁のある本をお探しください。 「仏教」に分類される本ですが、お釈迦さまご自身の生前の言葉を 集めたものです。日本仏教は素晴らしい教えが数限りなくあるのですが、 本来のお釈迦さまの教えを、何々宗の宗祖(開祖)の解釈により、 かなり分かりにくくしてしまっています。 一般人にはお葬式以外でのお付き合いは無いに等しいと思われます。 お釈迦さまを標榜する宗教団体も多々ありますが、多くは、 教えをこねくりまわし、経典に良し悪しをつけ独自の階級づけをし 意味のないところで威張っている。ですから、 釈尊が「生きていた当時の言語録」を読むことをお勧めするのです。 何度も何度も読み返してください「もう読んだ」と思った時からが修行です。 違うスピリチュアル本に移りたくなった時が 「魔」の誘いなのです。 悪魔との会話 「悪魔との会話」というお経があります(これも初期仏典です) お釈迦さまご本人も何度も何度も、悟りを開いた後も、 さまざまな誘惑や身内からの災難に襲われているのです。 しかし、その悟りは揺るぎなく人々の幸せを願い続け 一生を終えられました。 そんな人の言葉に嘘はなく絶対に我々を裏切りません。 必ず心は洗われ、人生に喜びが生まれてきます。 人に知られず、自分だけの秘密として仏の言葉を 繰り返し繰り返し繰り返してください。 他人や身内やパートナーに嫌味を言いたくなったら、 運の悪いのを誰かのせいにしたいと思った時、 ひどい行為をしてしまったご先祖さんや誰かが 自分を不幸にしているんだと怒り心頭に達したとき、 自然に任せ、そして、そんな自分を見つめ、その後に、 お釈迦様はこんなことを言っていたな、こいつらも、 これを知っていたら違った言い方ができただろうにと。 少しでもそう思うことができ始めたら、相手に対する、 自分自身に対する憐憫の情と慈悲の心が ほんのりと立ち上がり始めたことになります。 その時から運勢の歯車は大きく回り始める。 少しづつ、自分に対する優しさが芽生えてきます。 運が変わる時というのは、このように明確な転換点があるのです。 そうすると、ご先祖さんのダメな所ばかりでなく、努力や、 きつい苦しみに耐え抜いた人生に共感できるようになる。 身近な人達にも同様な感情が湧いてくる。そうすると、 あなたの「行動の質」が変わってくるのです。 自分も誰かに苦しみを与え、その人は今も耐え続けている(かもしれない)。 被害者の目線と加害者の目線が一つになってしまう。 世の中を平らに見ることができればだいぶ気持ちは楽になれます。 しかし続けなければ、元の被害者の目線に戻ってしまう。 だから、ここからが修行だというのです。 我々は自分の中に魔を持って生まれている。 「気づき」が生まれれば、それを元に戻そうとする心が働く。 それを魔というのです。なんであれ、運勢における気づきというのは 穴があったら入りたい気分にさせるもので、これが「慚愧」に通じていき、 それを阻む心が、慣れ親しんだ元の心に戻そうとする、それまでに培った 時間と行動がその実態で、運が良好に変わり始めると、しばらく 居心地が悪くなる。泥水の世界から清水の世界への移行期間ゆえ 慌てる必要はありません。すぐになれます。 「魔」とはそんなものなのです。 真理の言葉 お釈迦様の生前の言葉は、本当に心が暖かくなる言葉ばかりで 自分の心に素直に入ってきた時は、胸が熱くなり、憚りもなく 涙が流れてきます。 何度も何度も涙が積もりに積もった自身の悪辣な思いを洗い流し、 尽きるまで、冷え切った心が温まるまで静かに、密かに、 読み続けてください。知恵が生まれるまで 自身の皮肉な言葉と愚痴の心が落て消えゆくくまで、 短気や暴力 暴言 他人をいじめたくなる気分屋の心、 その行動に変化が生まれるまで、繰り返し繰り返し読み続ける ことです。やがて黒い家にも少しづつ光が射してくるでしょう。 もちろん日常の家の掃除や家事全般にも気をつけましょう。 少しづつ心と環境を整えていくことです。 環境の汚れは視覚から心に濁りを喚起させてしまいます。 最後に 風水的な知識も大事にしてください。 そして、良かれと思うものが何であっても他人に押し付けないことです。 宇宙エネルギーや「真理」に関する豊富な知識があってもそれにおごり、 それ以外を否定し、他人を見下せばそれで終わりです。特に身内の 厄介者にこれをやってしまう人が多い。苦しみは消えません。 ご主人に敬意を持ってください。 注意点 何度も繰り返しますが「本」を読んでいることを他の人には黙っていてください。 人は弱く喋れば喋るほど驕りが生じ。自分が偉くなった気分になり 心が濁り仏様の言葉が効かなくなるからです。 |
マインドフルネス
洗心庵のマインドフルネス 苦しみはどうすれば手放せるのか? 暗い家にしても家族の悩みにしても、どうすれば 苦しみを手放せるのか? 運動によるストレスの発散。 心の痛みへのアプローチは、やはり運動を介するのが最善です。 だいぶ昔「軟酥気功」を教えたことがあるのですが、誰も 続きませんでした。多少複雑なので無理もありません。 より簡単で効果のあるものを紹介したいと思います。 難しく書けば呼吸筋を使う有酸素運動となるのですが 簡単です。普通に息を吸い、ゆーくりと息を吐くことを 繰り返す。できれば腰を入れないように背を伸ばしてこれを 繰り返す。ただそれだけです。次にというか、同時に心に 楽しい思い出を思い浮かべ、その時の喜びや、嬉しさを 思い出す。そして、ここからがミソです。 全て過去のことであり、移り変わる無常の思い出 全ては 諸行無常 あの時は楽しく素晴らしかった。嬉しかった。 精一杯の喜びを得られた。満足しよう。ありがとう。 感謝しかない。 これは過去の喜びを手放す作業です。 そして呼吸法を繰り返すことで、かなりの心の深層に呼吸が 響いていきます。色々な思い出が浮いてくる。 冷静に見つめ良いものも悪いものも「無常」という 薬(真理)を使って浄化していくのです。 これで「ダンマパダ」「スッタニパータ」に繋がりましたね。 苦しみの背には喜びがあり、喜びを手放せない限り 苦しみを手放すのは難しい。楽しい思い出に執着すれば その「執着」するというパターンが働き始める。 (「執着」とは追いかけ続けるという意味です。際限なく追いかけ続けること。幸せだけではなく、苦しみを追いかけ続けている。よく考えてみてください。終わりが無いのです。こんな怖いことは無いと思いませんか。だから、悪いように聞こえますが「諦める」ことが必要なのです。) 喜びに感謝して手放すことができれば、苦しみもまた 無常であると理解できるようになります。 「手放す」という言葉が怖くて使えない人もいるでしょう。 その方達は「完了する」という言葉を使ってください。 中には楽しいことなど少しも無かったという人もいると思います。 かくいう私もこの類です。しかし、そこには理由があり、 それは身の回りの環境の影響で、喜びを感じられなかった。 大抵は家庭環境 親の心理状態が転写された結果です。 子供さんのいる方達は気をつけてください。知らぬ間に子供に 不幸を伝染させている。このカラクリがわかれば子供であった 頃のあの暗い世界は、あなたのせいでは無かったと理解できるでしょう。 この部分を明確に理解することが親子関係では何よりも大切です。 そして、そこから離れられず、「親のせい」で心が閉じてしまうと 自分の人生が「不幸な親の人生」になってしまう。 あなたはだあれ?不幸な親の分身ですか?あなたはあなたじゃ ないんですか?親の不幸を手放すことです。それもまた過去であり、 今は親の影響下にあるわけでは無い。親との関係も無常なのです。 無常なのですよ。変化し、過ぎ行き、違う形に変容し続ける。 この一瞬は次の一瞬とは全く違うものなのです。 親の愛も、かつての恋人も、ひどい別れも、裏切りも全て 無常なのです。けれども手放せない。きっと理由があるから手放せないんだと、 その理由を探し続けている人もいると思うのですが、 その理由もまた無常なのです。単なる偶然の重なりがあっただけなのです。 偶然の繋がりが縁になって今がある。これが縁起と言われるものです。 ソウルメイトも何もかも、我々にはわからない。 これを真言密教の最も重要な本尊感では「阿字本不生不可得」なりと、 原因を追う事自体無駄だ際限が無いと伝承されています。 「どうして自分は不幸なんだろう?」この問い自体が無限地獄の 入口なのです。この問いを捨てて、今日一日を頑張ろう。と思うことが 「楽しい人生」の始まりなのです。 そろそろ呼吸法に疲れてきた頃でしょうか。 そうしたら、身体に聞いてみてください。しっかりと 呼吸法ができていれば、体だけは充実しているはずなのです。 数分でも集中して有酸素運動をすれば身体中のミトコンドリアは あなたの心がどうであっても元気に活動し始めている。 体が元気になれば気力も充実し、多少の悩みは落ち着いてくる。 身体から元気をもらってください。元気になって明るくなりましょう。 そして心の支えに「本」を読みましょうね。 色々書いてきましたが、息を吸い、長くはき、心に浮かぶ言葉やイメージを 「無常」という薬剤を使って整理していく。 呼吸が正しければ身体は気力に満ちています。 だから大丈夫です。続けてください。 そして、この一瞬がどれだけ大切なのか、二度とこない一瞬なのかを知り 力を尽くすことです。本当の自分を評価をできるのは自分だけです。 一生懸命やったか、手を抜いたのか。善であったのか不善であったのか。 自身の価値観をこの2点だけにおけば人生は随分楽に単純になります。 まずは過去から来る苦しみを「無常の瞑想」を使って手放し、 二度とやるまいと自分の行動に鍵をかけ、そして 他人を大事にし、喜びを増やしていく実践を繰り返すこと。 行動してください。 机上の論 頭でっかちでは幸せは、いつまでも憧れの存在です。 |
神と仏
前回心の浄化法の提案として生前のお釈迦様の言行録を お勧めしましたが、誤解する方がいると思うので改めて 書いておきます。 仏教を根本的に間違って解釈している方たちが多いのですが、 それは仏教を学ぶと「運命が変わる」とか「因縁が切れる」と誤解している人が けっこう多く、釣り文句にしている教団もある。 これは大間違いで、正確にいうならば、 「因果の法則は絶対であり、行いによる結果は間違いなく来ますよ。」という 七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)にある通り、 それぞれの「行い」が何より大事であり、信仰は大事ですが「信仰」だけでは 運勢も因縁もどうにもなりません。信じて行ずること。これを徳積みと称し、 まったく運の改善とは違う行為をさせている教団もありますね。 恨みや怒りや差別や嫉妬や執着がネガティヴな運を作り出しているのです。 過去世における、現世における(また来世においても) あらゆることにおいての日常生活の反応傾向(パターン)。 これが知らず知らずのうちに我々が陥っている人生の落とし穴です。 この反応パターンを制御できたら違う人生ですね。 ご存知の方も多いと思いますが、 お釈迦様のご実家である釈迦族は皆お釈迦様の教えの信者でしたが 釈迦族に恨みを持った他国に殲滅されました。 お釈迦様の十大弟子、その中でも二大弟子の一人目連(もくけんれん)は最後に 撲殺されています。 行為には必ず結果が伴う。だからと言って、それを怖がって 良い人でい続けられるほど、人生は甘くありません。 戦いを回避し続ければ相手にさらなる業を積ませることになります。 だから戦うべき時は勇気を出して戦ってください。 本当に日本はすごい国だと思うのですが、ご先祖さん達は、 この辺りのバランスを安心を与えてくれる仏教と現世利益を 付与する神を祀る神道を使い分けてきたように思うのです。 あの世は仏さま、この世は神さま。 実際に願いがあるならば、神様に祈願し背中を押してもらえるような 努力をし続ければ神のご加護がある。しかし努力もせずに 願うだけでは神力は発現しようがない。 願うだけの信心と行動を伴う信心の違いです。 当たり前のことですね。これも因果の法則です。 仏教は宗教では無いとダライ・ラマ猊下は常々仰られています。 師も教えも正しいかどうか検証し見極めることから修行が 始まるとのこと。なかなかすごい言葉だと思います。 幸い我々は出家ではありません。肉を食らい子供を作り安寧を望み、 次の世代が安全で豊な環境であって欲しいと望んでいる。 であれば、沈んでいる暇は出来るだけ短い方が良い 生きる希望を持ちましょう。死後の希望でも良いと思います。 (自然死、病死のことを指しています。誤解なさらないように。) 心には「仏心」を、頭(こうべ)の兜には勝ち運の 神を頂くことです。そして、成した行為の責任をとる覚悟を 持つことですね。逃げても必ず追ってきます。 そうであれば真正面から受け止めること。 そうすれば何とかなるものです。 |
禅病 虚無 空虚
しっかりと無常の瞑想ができると、世の中全てが空虚で 意味のないものに思えてきます。恐ろしさが先に生じる場合もある。 「存在が無くなる恐怖」「意味が無くなる恐怖」とでも言いましょうか。 恐ろしさに怖気が走ることもある。昔の人はこれを「虚無」と表したそうです。 その時は一旦瞑想をやめて、休んでください。体と心を健やかに保つこと。 そして考えるのです。「生きるとは何か」と。 「無い世界」での生きる意味を考えることです。そうすると、 この世は無常ではあるが、物を生み出すことはできる世界である。 全て消えていくが、「何か」が「存在する時間」は間違いなくあることに 気づくでしょう。 それが「因」と「縁」により生じる「果」これが「縁起」と いうものです。 人であれば平均で80年程度の時間(存在)が約束されている。 この限られた時間の中にいるにもかかわらず、四苦八苦に時間を 費やす馬鹿らしさ。最初は難しいですが 「サラリサラリ馬鹿らしい」と手放す訓練をすることです。 あーあ、馬鹿らしい。と開き直ることです。 そして、さらに無常の瞑想を続けて、心の洗濯を し続けることです。 そうすれば仏さまに会えるかもしれません。 洗心庵の生徒さんであれば、ここまで読めば、これって 順逆のサイクルそのものだと気づいてくれるかもしれません。 そこに気づいてもらえると本当にありがたいのですが.........。 個人の運の改造 改善に関してはこれで言い尽くしたきらいがあります。 上座部仏教でいう「縁起」と大乗仏教でいう「空」は 人の苦しみを根本から解放する技術であり、あくまでも個人に帰属するものだと 私は思っています。 良い動機を持ち良い縁を作れば必ず良い結果は得られるものですが 自分の成した行為以上の結果を期待することは苦しみの始まりになる。 足るを知り リセットし レベルを上げていく(維持していく)繰り返しで 人生は随分楽になるものですよ。 |