2013-12-02 12:42:48 0 Comments
自分自身を知る方法にはいろいろある
と思うのですが私は推命学にそれを求め
てきました。そして、その過程で
何度も失敗を繰り返してきたことも
事実です。もちろん自分の事ですが
運勢なのかサボリ癖からなのか
落ちていく事だけはわかるのですが
理由の分からない流れに呑まれ、
流されているとき、ワラにもすがるような
思いで「運命学」を学び始め、
自分についている貴星や
各局法でぬか喜びし、それでも
一向に苦しみが去らず、もがいていた頃
緒方先生の本と巡り会いました。
四柱推命学会で教える推命学が
同じ泰山流でも自分が今まで知っていた
ものと雲泥の差がありすぎることに驚愕し、
さっそく入門してみると、なんとそこでは
私自分の生き姿そのものを解説する講義が
されていたのです。かなりショックでしたが
自分自身の光も影も講義の中にあったのです。
鏡に映った自分自身の姿そのものです。
推命が完成したのは明初と言われているのですが、
その後の時代背景を勘案するとやはり
支配層(依頼者)にたいする遠慮と媚(こ)び
へつらいいによる美辞麗句の鑑定が
不可欠だったのだと思われます。
まさか権力者の息子の鑑定に
放蕩息子で家を潰すとは言えないでしょう。
無礼者と言って殺されます。
このような推命術のノウハウが
漢籍として輸入され今に至っています。
もちろん有意の先生がたたちは
当てるための努力を惜しまず、理系が得意な
先生がたは統計学をもとにして一派を
なしています。
しかしこれは運勢絶対主義であり
人の「行動 努力」は運命に影響しないという
前提により成り立っています。結局
運勢の影響下にある人間の一面しか見ていません。
ぼんやりと歪んだ姿が映っている鏡としか
私に思えないのです。
「真澄の鏡」でなければ自分の本当の姿さえ
見る事が出来ません。まして、それを変える
などというのは論外だと私は思うのですが
いかがでしょうか。