2010-10-06 22:44:40 0 Comments
だいぶ前に随分話題になった韓国のカルトキリスト教の「摂理」の記事が久しぶりに日テレニュースで記事にされていました。この教団は日本でも所謂一流大学の女学生が犠牲と言うか教祖の生け贄にされ被害届がだされ、事件になったのですが、今回の法廷の傍聴席には信者さんが多数押し掛け教祖の無実を主張しているらしいということです。事実を事実として見る事が出来なくなった良い例です。信じるという行いは自己否定から始まります。自分の思っている事は、もしかしたら違うのかもしれない、「あの人」が言っている事のほうが正しいのかも知れない。このような自己との会話から信仰は始まるのですが、「あの人」と自分の接点が一番の問題です。たくさんの人達が声をかけられたはずなのに、なぜ、自分達だけがそういう場に進んでしまったのか。酷な話ですね。
人は徒党を組むと狂います。自分の居場所を徒党の中に見つけたものは、それを守るために自己犠牲をいといません。かつてのオウムやその後のアレフやなんとかかんとかも同じです。個人の癒しの場が、その場を守るための闘争にシフトし始めたとき、教祖の欲望は暴走し始めます。なぜなら、自分を命をかけて守る連中が側に控え、内輪では何をしても許されてしまうからです。こうなると、ただ、本能のおもむくままです。摂理の教祖さんは女性と楽しむ事が彼の一番強い欲求であり、これで足がついた。麻原は自分を受け入れない世間に対して無差別テロを起こし今にいたっている。そういうことです。
宗教を信仰したり思想を同じくするものは決して徒党を組むべきではありません。人は弱い生き物です。ベンチがあれば腰掛けたくなるし、仲間がいれば頼り、群れたがり、同調しない者は疎外し、敵対する者とは、争います。これが世の矛盾の原点です。宗教を民族と入れかえれば東欧やアフリカで起きている事をそのままさしますね。人が強くなるためには人生に対するグランドデザインとでも言いましょか揺るぎない知恵を持つ必要があります。私はそれを「人は必ず死ぬ」認識だと思っています。死する命をお互い愛(いと)おしむ事。憎んでいる相手も、愛してやまない相手も、そういう自分もやがて死ぬ。これが誰も否定できない事実であり、真善美の「真」だと言っていいのではないでしょうか。