2013-11-01 21:51:41 0 Comments
「正しい行為」と「善なる行為」
どうでしょうか?もしかしたら
どちらも同じと考えている人が多いの
ではないでしょうか。
よく考えなければいけません。
小学校低学年くらの子供によくあるの
ですが、信号が赤のとき車が来なくて
も子供は渡りません。学校や親の教育
のおかげです。所謂、遵法精神です。
実に正しいと頭ではわかっているのですが
どこか違和感があるのも事実です。
どこか私には「偽善」という言葉から
発する匂いと同じものを感じます。
それでは「善なる行為」とはなにか?
私の言う善なる行為は
他人を傷つけず、自分を傷つけない
ただ、それだけです。
言うに易(やす)く、行うは難(かた)し
でも、これができると、
「楽」に生きられるようになります
それも、運勢の吉凶を越えて楽に生きられる。
凶運期でも関係ありません。
なぜなら、他人と自分を比べる必要が無くなり、
すべての行為に自分自身で責任をもつ事になるからです。
もし「苦」が生じたら、その原因は自分が作ったもの。
楽になりたければ、苦の原因を放棄することです。
その原因が自分の欲から来ている場合、その「欲」は
自分の運勢に書き込まれたプログラムが作り出した欲望で、
このシステムを自覚する事が出来きるようになると
浄化する事ができるようになります。
この浄化する行為そのものが実は善なる行為そのものなのです。
人は自分の欲が放棄出来ないが故に苦しみもだえています。
でも、それこそが自分自身だと思っているかもしれませんが
それは自分の一部でしかなく、全部なわけではありません。
だから、人には必ず救いがある。だから、諦めるのも自由ですが
すべてを諦める必要もありません。