2012-12-23 22:22:04 0 Comments
教室では恋愛や相性についてよく話すのですが
ある星の特徴として、出会、相手にドキドキ感が生じると
それを恋愛と翻訳してしまう人がいます
ほかほかした感じ、またはビビットきた感覚です
それを愛や恋と定義し、その感覚の快感から、より
親身になることを求め合う結果としてと所謂「おつきあい」
となるのですが、親しくなり、お互いの関係に馴れてしまうと
その感覚が麻痺して、ドキドキ感が自然に消えて来る
これは生活を共にすることにより、お互いの存在が自然となる
当たり前のことなのですが、それを当人は物足りないと感じ
自分の愛が冷めたと解釈し、刺激がない、つまんないと言い始める
そんなとき出会いがあり再びドキドキ感が呼び覚まされると
こんどはそちらを「愛してる」本物の愛はこの人にしかない
などと始まります。でも、これは星の刺激による、
ある種の幻覚でしかなく
延々と繰り返される恋愛劇の一幕でしかありません。
恋が実り、過去を捨て、新しい恋愛に生きたとしても同じように
慣れ親しみ、愛が消え、違うドキドキする相手を求め始める
たいていは、2回くらい繰り返し、3度目は生活を考えて、
繰り返す前に諦めるのですが、内心は変わりません。
自分の持っている星の傾向がわからなければ、
ただ、星の示す通りの生き方になる。
ほとんどの人が星の通りの生き方なので、それが人生さ.....。
遊びをせんとて生まれけんなどとうそぶくのも悪くありません。
それだけの情報量なのですから、それで十分な人生です。
でも、自分の心のクセに気付き、最初の出会いを大切にできれば
もう少し、人生は楽になるのではないのでしょうか?
また、みずからに足枷(恨み)、手枷(嫉妬)をし
地獄の底を這いずり回るような生き方をやめてもよいのでは
ないのでしょうか。本人達は、自分がかつて傷つけられたのだから
当たり前だと言うのですが.........。
人生は持って生まれた星と、自分自身が積み上げた情念で
成り立っています。けれども、人の心にはそれ以上のスペースが
誰の中にもあります。ただ、それに気付かないので、今ある情念が
全てだと錯覚してしまう。
私の力不足でそれを見せてあげることは出来ません
ただ本人が謙虚に自ら手枷をはずして見ようとさえすれば
必ず得られるもので、自由になれる。
推命学が本来目指すものはこのことなのではないのかと
私は思っています。
来年も教室の募集を行います。興味のある方は
奮ってお問い合わせ下さい。